무릎

 心というものは不思議で、じぶんでも思いがけないような方向にすすんだり、うごかそうと思ってもびくともしないこともある。心のうめき声のようなものをなんとか聞こうとしているうちに夜が深く更けてしまっていることがある。

 8月にSEVENTEENというグループのウォヌがこの曲(IUのカバー)を歌うのを偶然耳にしてから、何度も繰り返し聴いた。ウォヌの声は静かで、少しささやくみたいで、淡々としていた。ウォヌが歌う무릎には夜の海を漂う舟のような美しさがあり、IUの歌う무릎には静かなピアノの旋律のような美しさがある。どちらも、遠くまで届く歌だ。

 この歌を聴いていると、歌う人がある特定の誰かへ向けた思いのようなものが少しずつ伝わってくる。この歌を聴かせたい人がどこかにいるのだということをぼんやり感じる。おなじように、韓国語でこの歌を口ずさむたびに、私にもある記憶がよみがえってくる。父の記憶だ。まだ幼い私のそばに父がいる記憶。父のそばにいるだけで私の耳にきこえた子守歌。同時に、不思議なことだが、もうこの世にはいない父に向けて子守歌を歌っているような感覚になる。

 父は私のことを心配していた。突拍子がなく、一度こうだと思ったら無謀にも突き進む私をときに非難したりもしたが、ほんとうはとても心配していたのだと思う。それでもいつも最後には、「これから大変な時代がやってくる。お父さんにもこの先のことはまったく見えない。だから、あんたがそうだと思ったなら、そうするしかないと思う」と言っていた。

 父は私が何も持っていないこと、この先のもっと先までを照らし出す明かりのようなものがどこにも存在しないことを嘆いていたが、父がくれたことばが、そして私が父に向けて歌う歌が、その明かりになるのだと言いたい。真っ暗な、はてしない闇を照らし出す明かりがいつからか私の手の中にあったのだ。

 回復はゆっくりと訪れる。何をきっかけとするでもなく、ただ記憶を手がかりとして。この歌は記憶についての歌でもある。もう二度とは戻れない場所へ、もう一度戻ってゆくための歌。あの日子守歌を歌ってくれた人に向けて、今度はじぶんが歌う子守歌。そうやって繰り返されてゆく何か。