シスターズ

 小学生の頃、『若草物語』を読んだ。裕福でもなく、周囲から見てもおそらくけっして「恵まれている」とは言えないであろう四姉妹の暮らしは、私という読者からしてみると、穏やかで幸せなものに見えた。それぞれがやりたいことをやり、少なくとも自分自身はそれに満足していた。私は、物語を書く次女ジョーにつよくひかれた。

 『若草物語』が構想のきっかけになっているというドラマ『シスターズ』の舞台は現代の韓国だ。インジュ、インギョン、イネの三姉妹は貧しいながらも支え合って暮らしているが、いくつかの出来事をきっかけに巨大な陰謀に巻き込まれてしまう。いや、巻き込まれてしまうというよりは、すでに自分たちがその渦中にいることに気づくのだ。そこから逃げ出す方法が、彼女たちにはない。逃げても逃げても、そこは渦の中である。

 会社の「ハブられ」仲間であるファヨンから渡された現金700億ウォンのバックパックを、インジュは引き受ける。社会の中で「とるにたりない」とされた人々どうしが秘密うちに何かを渡し、引き受け、受け継いでゆく。このドラマには秘密の結託と共有がある。ある場所からはけっして見ることができない一連の、途切れることのない動き。少しずつ進行する計画。点滅するように出現しては消滅する何か。それは完全に消えてしまうことがない。インジュがファヨンからあのバックパックを受け取ったのは、終わりのないはじまりだった。

 実際に、このバックパックから姉妹の物語はめまぐるしく動き出す。姉妹の「小さな」(韓国語原題『작은 아씨들』を直訳すると「小さなお嬢さんたち」になる)日常が、韓国社会に根を張った「大きな」陰謀と背中合わせになる。姉妹はいつも危険にさらされている。安全な場所はどこにもない。そんな状態の中で姉妹はそれぞれに出口を見つけようともがく。そして、出口が見つかるところにはいつも、大切な誰かの存在がある。それは、姉妹だったり、ことばで言いあらわせる関係ではなくても繋がっている誰かだったり、すでにこの世には存在しない人だったりする。幼い頃に命を落とした三番目の姉妹(ほんとうは四姉妹だったのだ)をインジュ、インギョン、イネと切り離すことはできない。姉妹は死者を切り捨てはしない。いや、抱えてゆくのさえも困難な記憶(実際インギョンは、インジュに言われるまでその子のことをわすれていた)の中にある死者が、姉妹を切り捨てないのだ。ここにも外からはけっして見えない秘密の結託のようなものがある。

 『シスターズ』では現代社会が背負っているさまざまな問題、それらにつながっている歴史が描かれており、ときにそれがもっとも象徴的かつ凄惨な形で表出したりもするのだが、ドラマを見終わったあとに強く心に残るのは、それら数々の印象的にみえるシーンよりも、その中に身を置きながら自分自身の人生の中へ、外へ、飛び込み、飛び出して行く姉妹たちの姿だった。この物語を基底部で支えるお金の流れそのものよりも、姉妹の表情が、ことばが気になった。小さい頃にジョーに自分を重ねていたように、インジュやインギョンに自分を重ねてみる。このドラマを見終えたあと、私の心にいちばん最後まで残ったのが姉妹の姿であったことが他の何よりも印象深い。

 このドラマのコンセプトに「小さくても大きく、低くても高い話」(公式HPより)というものがあるが、この物語はドラマを見る私たち自身の物語でもある。私たちの隠された物語。「小さな」私たちの物語を私たち自身がどう見るかの話だ。姉妹の「小さな」物語をここから目にしたとき、私はそれを「大きな」物語だと言いたくなる。壮絶と言える出来事がドラマの中で次々に起こるが、そのすべては私たちと遠く離れてはいない。というよりもむしろ、もっとも近いところにある。

 『若草物語』はけっして何か特別な出来事の連続ではない。この、マーチ家の日常が淡々と綴られた「小さな」物語は、世界中の人々に読まれることによって同時に「大きな」物語になった。ドラマ『シスターズ』は私に、物語を見つめるもう一人の自分を思い出させてくれる。幼い頃、ジョーと私のまなざしが何度も交差したように、現代という時代の中で、その歴史の中で、姉妹のまなざしと私のまなざしが交差する。あの姉妹の強さが、激しく震えながらも途絶えず、「大きな」力が消えたあとにも残ったつよさがどこから来るのか。それは小さいところから。もっとも低いところから。つまり、私たち自身の中から。

 何度転んでも、完全に打ちのめされても、またやりなおすことができるようなヴィジョン。悲劇や絶望の反復ではなく、何度でも起き上がることによって少しずつ構成されてゆく反復記号のようなもの。小さくても大きく、低くても高い話。これからはそんな話を書いてみたい。

 

 

무릎

 心というものは不思議で、じぶんでも思いがけないような方向にすすんだり、うごかそうと思ってもびくともしないこともある。心のうめき声のようなものをなんとか聞こうとしているうちに夜が深く更けてしまっていることがある。

 8月にSEVENTEENというグループのウォヌがこの曲(IUのカバー)を歌うのを偶然耳にしてから、何度も繰り返し聴いた。ウォヌの声は静かで、少しささやくみたいで、淡々としていた。ウォヌが歌う무릎には夜の海を漂う舟のような美しさがあり、IUの歌う무릎には静かなピアノの旋律のような美しさがある。どちらも、遠くまで届く歌だ。

 この歌を聴いていると、歌う人がある特定の誰かへ向けた思いのようなものが少しずつ伝わってくる。この歌を聴かせたい人がどこかにいるのだということをぼんやり感じる。おなじように、韓国語でこの歌を口ずさむたびに、私にもある記憶がよみがえってくる。父の記憶だ。まだ幼い私のそばに父がいる記憶。父のそばにいるだけで私の耳にきこえた子守歌。同時に、不思議なことだが、もうこの世にはいない父に向けて子守歌を歌っているような感覚になる。

 父は私のことを心配していた。突拍子がなく、一度こうだと思ったら無謀にも突き進む私をときに非難したりもしたが、ほんとうはとても心配していたのだと思う。それでもいつも最後には、「これから大変な時代がやってくる。お父さんにもこの先のことはまったく見えない。だから、あんたがそうだと思ったなら、そうするしかないと思う」と言っていた。

 父は私が何も持っていないこと、この先のもっと先までを照らし出す明かりのようなものがどこにも存在しないことを嘆いていたが、父がくれたことばが、そして私が父に向けて歌う歌が、その明かりになるのだと言いたい。真っ暗な、はてしない闇を照らし出す明かりがいつからか私の手の中にあったのだ。

 回復はゆっくりと訪れる。何をきっかけとするでもなく、ただ記憶を手がかりとして。この歌は記憶についての歌でもある。もう二度とは戻れない場所へ、もう一度戻ってゆくための歌。あの日子守歌を歌ってくれた人に向けて、今度はじぶんが歌う子守歌。そうやって繰り返されてゆく何か。

 

 

 

 

Celebrity

 ゆっくりと歩き出すようなリズムとIUの低く落ち着いた声ではじまるこの曲を耳にするたび、不意打ちのように胸が締めつけられる。何度も聴いている曲のはずなのに、そのたびに私の中で何かが大きく揺れる。

 ”celebrity”という単語には、一般的に「有名人/セレブ」のような意味がある。実際に、この曲のミュージックビデオにはIUが「有名人/セレブ」を演じているような場面が存在する。しかし、その「有名人/セレブ」であるIUが歌う”celebrity”は、どこか世界の端っこのような感じを秘めている。周囲に馴染めないままで大人になってしまった人、他の人とは違うものをひたすら見つめて生きてきた人、そんな人のことを思い起こさせる。

 そんなふうに感じるのは、私にもそんな友人がいるからだろう。飾らない心がときにひねくれてはじき出されてしまった人。どうやっても誰の言うことも聞けなくて、はぐれもの扱いされてきた人。ほんとうは誰よりも優しくて傷つきやすい人。

 私が何もかもなくしてしまって、まっさらな荒野から一人で歩きださなければならなかったとき、勇気が出なくて一歩も動けなかったとき、会えなくてもその人はいつも味方でいてくれた。実際に会って話をしなくても、心の中ではいつも手を握ってくれた。

 私がはじめてこの曲を聴いたとき、”celebrity”は「光」だと思った。あなたは私の光。あなたは私の祝福。直訳するとこれらの訳は間違っている。でも私にはそうきこえたのだ。

 
넌 모르지
あなたは知らないでしょう
떨군 고개 위
うなだれた頭の上
환한 빛 조명이
明るい光を放つ照明が
어딜 비추는지
どこを照らしているか
 
느려도 좋으니
ゆっくりでもいいから
결국 알게 되길
いつかわかってくれますように
The one and only
You are my celebrity

 

잊지마 넌 흐린 어둠 사이
忘れないで 君は薄暗い闇の中
왼손으로 그린 별 하나
左手で描いたひとつの星

 

 あなたはたぶん気づいていない。まぶしい光を放つその照明があなたを照らしていることに。だから、そのままでいいのだと私は言いたい。あなたは唯一無二で、私の光であり、祝福なのだから。

 この曲を聴いていると、不器用な形の星から星へ、広大な宇宙を歩いているような気分になる。視線の先にあなたがいるから、私は歩くことができる。木々の葉が色づいてゆくように、髪が少しずつ伸びてゆくように、ただあなたがそこにいるだけで、光は少しずつ満ちてくる。

 

 

 

 

 

サイコだけど大丈夫

 大学を卒業してみたはいいものの、私はまた大学にもどった。

 ときどきキャンパスを一人で歩いてみる。あの頃とおなじなのに、何かがちがう。大きな木々に覆われたキャンパスはとてつもなく静かで、少しのあいだ立ち止まってみる。そうか、私が幽霊になったのか。

 小さい頃から目に見えぬものに惹かれ、そうやってうっかりし続けている間にとうとう幽霊になった私は、あたりまえのことのようにじぶんの持っていたものを捨て、これから足場となるであろうものを捨て、最低限の保障となるであろうものを捨てなければならなかった。誰に何と言われようと。

 

 ドラマ「サイコだけど大丈夫」に出てくる幽霊が、目には見えないのにけっして無視することができない何かがつねにそこにいる感じが私を虜にしたのは、だから言うまでもない。「普通」の人々が持っているはずのものを一つも持たず、「社会」からはずれたところで生きるガンテやサンテ、ムニョンを私は愛さずにはいられなかった。

 登場人物たちは皆、行きあたるところ問題だらけであるが、それでも移動することをやめない。やめることができないのだ。引っ越し続きの人生、壊れたバイク、周囲からの目、すでに取り返しのつかない後悔、恋はけっして上手くいかない。はじめからどこにも希望はないように思える。

 「薬で下げられる熱じゃないわ」

 ムニョンが言う。

 登場人物たちはそれぞれ、到底ことばで言いあらわすことなどできない、過去として捉えることなどできない、その中を生き続けるしかないような痛みと記憶を抱えている。

 「大人」と言われる年齢になり、再び出会うことになるガンテとムニョンにとって、未来を生きることは過去を生きることである。取りもどせないはずのことば、取りもどせないはずの記憶をもう一度生き直し、その悪夢のような話の続きを思い出すことをやめられないまま、封印された場所、つまりあの廃墟となった古い城に二人は再びもどって来る。

 残酷な記憶は消えることがなく、過去は修正されない。しかし、現在を生きることが、未来を生きることであると同時に過去を生きることであるとしたらどうだろう。もとの状態に戻ることが回復ではないのだとしたら。消えない痛み以前に戻ることができないとしたら。

 ガンテの腕の傷跡を思い出す。ムニョンと再び出会った日にナイフが刺さったその腕に血はもう流れていなくても、傷口はすでに閉じていても、けっしてもとの状態にもどることはない。けれども、もし傷を負うことそのものが回復のプロセスにあるのだとしたら、ガンテやムニョンははじめから回復の時間を生きていたのではないか。

 

 昨年末に帯状疱疹になった。右腕全体が赤黒い湿疹で覆われてひりひりした。このままこの傷が治らなければいいのにと思った。見ているかぎり、それは簡単には治りそうになかったし、症状は私の手が届かないところ、ずっと深いところから来ているように思えた。しかし、しばらく経つと水ぶくれが破れはじめ、それがかさぶたになってゆくのを私は見た。

 そこに傷があったことを覚えている。時間が経ったいまも、ひんやりした日や雨の日は、人差し指のあたりがひりひりする。目には見えなくても、このからだの中には傷が潜んでいる。そう思うとき、傷は回復そのものだった。まったく無傷ではなく、まったく大丈夫ではないが、ムニョンが言う「괜찮아」(大丈夫)はなぜか魔法の言葉のようにきこえる。古い呪いはどこかなつかしく、そこにある光は私の中の見えない光と一瞬かさなる。