サイコだけど大丈夫

 大学を卒業してみたはいいものの、私はまた大学にもどった。

 ときどきキャンパスを一人で歩いてみる。あの頃とおなじなのに、何かがちがう。大きな木々に覆われたキャンパスはとてつもなく静かで、少しのあいだ立ち止まってみる。そうか、私が幽霊になったのか。

 小さい頃から目に見えぬものに惹かれ、そうやってうっかりし続けている間にとうとう幽霊になった私は、あたりまえのことのようにじぶんの持っていたものを捨て、これから足場となるであろうものを捨て、最低限の保障となるであろうものを捨てなければならなかった。誰に何と言われようと。

 

 ドラマ「サイコだけど大丈夫」に出てくる幽霊が、目には見えないのにけっして無視することができない何かがつねにそこにいる感じが私を虜にしたのは、だから言うまでもない。「普通」の人々が持っているはずのものを一つも持たず、「社会」からはずれたところで生きるガンテやサンテ、ムニョンを私は愛さずにはいられなかった。

 登場人物たちは皆、行きあたるところ問題だらけであるが、それでも移動することをやめない。やめることができないのだ。引っ越し続きの人生、壊れたバイク、周囲からの目、すでに取り返しのつかない後悔、恋はけっして上手くいかない。はじめからどこにも希望はないように思える。

 「薬で下げられる熱じゃないわ」

 ムニョンが言う。

 登場人物たちはそれぞれ、到底ことばで言いあらわすことなどできない、過去として捉えることなどできない、その中を生き続けるしかないような痛みと記憶を抱えている。

 「大人」と言われる年齢になり、再び出会うことになるガンテとムニョンにとって、未来を生きることは過去を生きることである。取りもどせないはずのことば、取りもどせないはずの記憶をもう一度生き直し、その悪夢のような話の続きを思い出すことをやめられないまま、封印された場所、つまりあの廃墟となった古い城に二人は再びもどって来る。

 残酷な記憶は消えることがなく、過去は修正されない。しかし、現在を生きることが、未来を生きることであると同時に過去を生きることであるとしたらどうだろう。もとの状態に戻ることが回復ではないのだとしたら。消えない痛み以前に戻ることができないとしたら。

 ガンテの腕の傷跡を思い出す。ムニョンと再び出会った日にナイフが刺さったその腕に血はもう流れていなくても、傷口はすでに閉じていても、けっしてもとの状態にもどることはない。けれども、もし傷を負うことそのものが回復のプロセスにあるのだとしたら、ガンテやムニョンははじめから回復の時間を生きていたのではないか。

 

 昨年末に帯状疱疹になった。右腕全体が赤黒い湿疹で覆われてひりひりした。このままこの傷が治らなければいいのにと思った。見ているかぎり、それは簡単には治りそうになかったし、症状は私の手が届かないところ、ずっと深いところから来ているように思えた。しかし、しばらく経つと水ぶくれが破れはじめ、それがかさぶたになってゆくのを私は見た。

 そこに傷があったことを覚えている。時間が経ったいまも、ひんやりした日や雨の日は、人差し指のあたりがひりひりする。目には見えなくても、このからだの中には傷が潜んでいる。そう思うとき、傷は回復そのものだった。まったく無傷ではなく、まったく大丈夫ではないが、ムニョンが言う「괜찮아」(大丈夫)はなぜか魔法の言葉のようにきこえる。古い呪いはどこかなつかしく、そこにある光は私の中の見えない光と一瞬かさなる。